観光って何だ

P1000541.JPG観光する筆者

観光って何だ―――

観光理解の混乱――観光産業と観光文化

 観光について意見交換をしていると議論がかみ合わないことがよくあります。「最近、観光客が減少している」と嘆く自治体の首長さんや旅行会社の役員は、観光を利益と雇用を産み出す産業だと考えています。毎年インバウンド数の拡大を自慢している観光庁もこの発想でしょう。一方、「爆買いから生活体験へインバウンドのトレンドが変化している」と指摘する観光評論家は、観光を社会文化の側面で捉えています。この2つは観光産業と観光文化と言ってもよいでしょう。現実は、この両者が互いに混合しあって存在しているから厄介な議論になるのです。ある自治体の委員会で「観光とは日常性から脱出して自分を再発見すること」という定義にこだわる観光学会の偉い先生が「この地域には宿泊施設の増設が急務だ」とか議論をしているのを聞いて、私は思わず吹き出したことがあります。このような観光理解の混乱が日本の観光施策の混乱を招いているといえます。

観光産業としての観光
天神橋商店街2.jpg大阪天神橋筋商店街

「観光産業としての観光」とは、簡単に言うと、金儲けのための観光です。これは自動車産業、化粧品産業、流通業、農業・漁業と同じで、その時代の経済環境にうまく対応していく以外に事業運営の方策はありません。自動車だって電気自動車や自動運転技術の波になんとしても遅れをとることは許されません。観光も、爆買いだ、暖冬だ、大雨だ、新型ウィルスだと絶えざる状況の変化に振り回されます。気候変動に揺さぶられる農業・漁業といっしょです。カネ儲けとは経済状況にうまく合わせることなのです。
 市場経済のこの側面に深いポリシーなどありません。儲かるとなれば、それも短期で資金回収ができると踏めば、ホテルも新築するし、売れるものなら世界中から何でもかき集める。問題は誰に売るかだけど、金持ちと庶民が2極遊離している現状で、どちらに買ってもらうかの判断が難しいところだ。
 私は、産業としての観光が好きです。日本では、観光産業は20兆円だとか30兆円だとかで膨大な産業規模を誇っています。自動車産業より大きいというのが自慢でもあります。関係する従業者の数も800万人から1000万人というから驚きでしょう。つまりは、観光産業は、一部の有能者だけが事業参加できる狭い業界ではなく、多くのフツーの人が参加できる間口の広い産業です。その仕事は属人的かつ属地的で、AIとは真逆の非効率な零細なサービス業が本質です。ここでは高級料亭から屋台まで、ディズニーリゾートから道頓堀の大カニ看板まで、人の気を惹くものなら何でもありと言ってよいのです。IRが、つまり公認博打が認められるらしいのですが、そうなると、あたらしい儲けのチャンスをもとめて海外や国内の大資本から零細資本までがわんさと群がるのでしょう。これを卑しいという人もいます。観光産業は下品で低級な産業だという人もたくさんおられます。
 わたしはその人たちに賛成しません。狭い国土に1億を超える人間が食っていくとは、こういうことだと思っています。狭い地球で80億に達する人間が食っていくには、観光産業のずぶとさが必要なのではないでしょうか。産業としての玉石混交性、強い者も弱い者も人間の理性と本性が混在して露見するカネ儲け観光、私はみごとだと思っています。

文化産業としての観光

四天王寺どやどや (19).JPG 私は、文化としての観光も大好きです。時折、国立文楽劇場へ行って近松の人形浄瑠璃を観ます。ことに『心中天の網島』が好きで、おさんという女の心情にいつも涙を流します。人形遣いや浄瑠璃に特に関心があるわけではないのですが、観劇した後の酒はしみじみとしてうまいのです。NYのシューベルトシアターで『オペラ座の怪人』を観終えた後も、一晩中感動を引きずっていました。文化観光って実にいいものです。永平寺に行くと、あの静寂の中で読経の響きに心が打たれます。どこにでも文化はあります。大阪のコリアタウンは韓流を好む若者でいつも賑わっていますが、その背景に在日の人たちの苦難の歴史が漂っていることに気づきます。それ以上奥深いことはよく知りません。
 観光文化とはこの程度のものですが、研究者や文学者になったわけでなく、〝文化的"になれる瞬間が観光気分でも味わえるのなら、すばらしいことではありませんか。時に駄句を吟じ、時にスケッチの鉛筆をなめ、時に写真家になり、コンサートに興じ、演劇批評家になる、そしてしみじみと酒を飲む。このようなことを取り込んでいる産業が観光以外にありますか。観光万歳です。低俗で野卑な観光、万歳です。

観光の無分別ですばらしいエネルギー

 このページのトップの〝変な”写真をみてください。私がスフィンクスにキスしています。エジプトのギザに行くとこの手の写真は観光客の定番です。ピラミッドやスフィンクスはエジプトの一大観光産業を形成していて、ラクダに乗り、近くのレストランで食事をし、夜のショウを観て、一日に何万人という世界中の観光客がカネを落とす。観光客としてはこれらを堪能しないとエジプトにやってきたことにならないのです。
 一方、ピラミッドやスフィンクスは古代エジプト王朝の歴史的な遺産であることはだれでも知っています。ピラミッド内の迷路をたどって玄室に至る体験も興奮ものです。風雨にボロボロになっている積み石に触れて4千年もの時の移ろいを感じます。観光客が求めているのはこの感触でしょう、5000年の歴史に触れる観光的感触!ユネスコの世界文化遺産も観光を抜きにすると、単なる遺産リストにすぎないのではありませんか。
 私たちは産業としての観光も文化としての観光も、ごっちゃになって「観光」を形成しているという事実をもっと重視すべきでしょう。このトレードオフの内包が観光のすごさなのです。「観光」になった途端に、大衆は文化を娯楽にし、娯楽を文化にしてしまう。大衆の無分別でこだわりのないエネルギーが観光に結集しています。
 私は大衆が観光に示すこのエネルギーに大きな愛着をもっています。高野山の修行僧を被写体にしてさかんにカメラのシャッターを切る観光客の光景を、ほほえましく思います。大嘗祭の宮殿見物に皇居に押しかける物見遊山の人々に、愛着を覚えます。祇園の高級料亭にイチゲンでなんとか飛び込んで芸妓を呼んでもらって悦に入っている観光客が、好きです。 観光というこのとらえがたい不条理な大衆産業、いや大衆文化こそ、現代を象徴する産業基盤、文化基盤なのではないでしょうか。

「まち歩き」ってなんだ―――

 私は「まち歩き」を、観光産業と観光文化のはざまに置いています。産業としてはその集客力(つまり金儲け力)には全く自信がありません。「長崎さるく博」が延べ1000万人を集客したという実績があり、その事実に引き寄せられて全国の自治体が「まち歩き」に走りましたが、「長崎さるく博」は長崎市が行政生命を賭けて挑んだ大規模イベントであって、だからこそその成果が生まれたものであることを軽視しては困ります。「まち歩き」を導入したからといって膨大な集客が手に入るものではありません。「まち歩き」の1回は参加者がせいぜい15人程度で、1万回やっても15万人の集客に過ぎないことを忘れないでください。
 一方、「まち歩き」は文化かというと、これにも自信がありません。たしかに、まちを歩いてさまざまな対象を注目します。今和次郎さんの考現学ですが、ただまちを歩いて、そこのあるものを見て、なぜそこにあるのかを考える程度のことで、鑑賞するほどのことではありません。
 つまり「まち歩き」とは、産業でも文化でもない、もっと自分勝手な自己満足の行為であって、他者や社会には何の役にも立たない時間つぶしです。ですから、「まち歩き」を観光のジャンルに入れないでください。ましてや観光産業とのかかわりを強調することなどとんでもないことです。それは、読書や映画やウクレレや囲碁、俳句、ゴルフ(すみません、私のやっていることばかりです)と同じで、好きだからやっているだけの、いわば趣味です。
 しかし、「まち歩き」も、読書や映画やウクレレや囲碁、俳句と同じで、奥の深い高度で複雑な知的趣味ですから、おもしろさは抜群です。対象は「まち」ですから、地球上どこへ行っても、いつでも、無料で、無資格で、無練習で、自由に楽しめます。しかも歩くのですから、スポーツでもあります。
 さらに、「まち歩き」にはもっとすごい効果があることに、最近気づきました。
 それは、「ともだちづくり」です。
 私は、元来、ともだちとか、仲間とか、絆とか、連帯とかという言葉が好きではありません。そこになんだかうさん臭いものを感じるのです。ともだちになると無理やりお付き合いを強制されるのではないかという恐怖心があるのかもしれません。みんなと一緒に、ということをいままで本能的に拒否してきました。しかし、いま、齢70を超えると、日々、とにかく寂しさを感じます。退屈と言ってよいのかも。孤独というほどではないが、ひとぼっちのむなしさをよく感じるようになりました。所詮、人間は社会的動物なんでしょうね。いまになって「終わりよければすべてよし」といいますが、「人生の終わりは寂しさに包まれていました」というのはあまりにも悲しいと思うようになりました。
 ところが「まち歩き」に参加すると、2時間から3時間のほんのひと時ですが、その時限りのともだちができます。「まち歩き」のあとに安い居酒屋で一杯やると数時間、久しぶりのともだち感覚が味わえます。これで数日は寂しくない、というより次に気が向いた「まち歩き」に参加すれば、また誰かともだちと出会えます。
 「まち歩き」は、人生でひと仕事を終えた塾齢者が、1500円(「大阪あそ歩」の参加料)で味わえる至福の時間ではないでしょうか。
 これはもはや観光産業でなく、観光文化でもなく、社会連帯というのではないでしょうか。   logo.pngTourismPropoor.jpg
 広いまちの片隅で、一瞬につながる連帯が「まち歩き」です。これが、大阪だけでなく、ニューヨークでもロンドンでも、ダマスカスでも北京でも、まちの片隅で展開されているとしたら、それは地球上の人間連帯でしょう。言葉でなく行動で示される人間の知恵のように思えます。実際、パレスティナの紛争地帯にもアフリカの貧困問題にも「まち歩き」が試みられています。「まち歩き」は空間を超えた、人間社会が要求する行動なのに違いありません。