しまなみ海道’99

来島海峡大橋の夕陽_page-0001-2.jpg建設中の来島海峡大橋に沈む彼岸の夕日

パンフ新表紙001.jpg 本四架橋3番目のルート
「南紀熊野体験博」の準備をすすめているときに愛媛県と広島県からもうひとつの大型イベントを依頼されました。瀬戸内海本四架橋3番目の尾道・今治ルート、西瀬戸自動車道が2年後に開通しますが、「瀬戸大橋や明石海峡大橋に負けたくない」というのです。政治架橋といわれ、先輩2橋はすでに開通して、瀬戸大橋は両端の会場に、明石海峡大橋は四国側の会場で派手な博覧会をやりました。両者とも数百万の観光客を集めて2橋の存在を印象付けるのに成功しました。ところが西瀬戸自動車道は6つの島を経由して瀬戸内海を横断するのにも時間がかかって産業道路としては不効率、しかも尾道・今治間では架橋のインパクトが2橋に比べて薄い、というのが広島・愛媛両県の不安です。「この地味なルートにスポットライトを」というのが依頼です。茶谷は、すでに「南紀熊野体験博」にかかっていましたが、尾道・今治のルート全体を対象にするということに非常に興味を覚えて引き受けることにしました。このときから月に数度、広島県尾道から、また愛媛県松山から和歌山県田辺へ高速にボロ車をとばして行き来するという曲芸のような生活が始まりました。

瀬戸内しまなみ海道という名称
しまなみ(愛媛)004.jpgしまなみ(広島)026.jpg
産業道路から観光道路へ
産業道路というのは本州・四国を結ぶ架橋として政治的に認められた建設目的です。広島・愛媛の有力な国政政治家たちが建設の決議理由として掲げました。しかし茶谷はあっさりこれを否定して「産業道路ではこのルートは負け組です」と主張して「観光道路として、しかも国際的に一級の観光資源である瀬戸内海を横断する景観道路として位置づけます。だから名前を変えたい」とのっけから乱暴な要求を掲げました。ルートの愛称を一般公募したなかに「島波道路」がありましたので、茶谷はそれを使って「瀬戸内しまなみ海道」と名づけました。目玉は「瀬戸内海を歩いて渡ろう」というもの、熊野古道を歩こうというのと全く同じコンセプトです。ところが本四架橋公団も新聞社も、私が「瀬戸内しまなみ海道と呼んでほしい」という要望書を何度出しても、当然のことですが、西瀬戸自動車道という公式名を捨てようとはしません。しかし開通式ではかろうじて(  )で書かれることに成功しました。それがいまや、このプロデュースを引き受けた私の最大の功績は「しまなみ海道」という名前を残したことです。

1000万人
「しまなみ海道’99」は、ルート上の6つの島と尾道、今治両市で無数のイベントをやりました。1000島々と拠点会場や施設の客数は1000万人を超えました。そのうちいくつかのものは10年後のいまも継続されていますが、なんといっても、しまなみ海道が国際的な名声を得たサイクルロードになったことでしょう。世界遺産熊野古道とともに、茶谷の誇りです。まさに神戸のアーバンから6年、茶谷の目指す地域一体参加、地域直接活性化のイベント手法が確立されたと思っています。毎日新聞のインタビューに茶谷は「生涯の記念に残る仕事になった」と答えています。
愛媛新聞1999-5-3001.jpg左より愛媛新聞・毎日新聞・朝日新聞毎日新聞1999002-2.jpg朝日新聞

JR大阪駅しまなみ+熊博004.jpgJR大阪駅構内の2つのイベントPR JR大阪駅構内に「しまなみ海道」と「南紀熊野体験博」の2つのPRブースがJRによって設置されました。私は何も知らずに出会いましたが、衝撃のうれしさでした。瀬戸内海と南紀と、2つの大型イベントを同時達成した喜びを味わいました。