和歌山と神戸のルミナリエ

和歌山ルミナリエパンフ.jpg和歌山と神戸のルミナリエ最初の神戸ルミナリエパンフ001.jpg

ルミナリエは和歌山から神戸へ行った
1995年1月17日阪神淡路大地震
ルミナリエ@バリ(伊)015.jpgイタリア・バーりルミナリエ@バリ(伊)007.jpgイタリア・バーり
1994年の夏に「世界リゾート博」は、目標の2倍という入場者を得て余剰金をたっぷり抱えて終了しました。余剰金30億円。さて何をするか。そこで茶谷は南イタリアの夏の宗教行事である「ルミナリエ」の誘致を提案したのです。ルミナリエは、旅行雑誌の小さな記事を電通の藤野さんがたまたま見つけて興味を覚え、経営企画センターの社員であった今岡くんに紹介したものです。茶谷は今岡くんにイタリアの現地調査を命じて資料を集めていました。和歌山でリ博1周年として開催することが決まったあと、茶谷と藤野さんは南イタリアでの調査を経て準備を進めていました。そこへ、翌年1月の大地震。幸にも和歌山に被害はなく、イタリアから資材を輸入して夏の10日間「和歌山ルミナリエ」を開催することができました。

和歌山ルミナリエ
和歌山ルミナリエ004.jpg和歌山ルミナリエ和歌山ルミナリエ025.jpg和歌山ルミナリエ和歌山ルミナリエ037.jpg和歌山ルミナリエ
会場は「世界リゾート博」の跡地です。「光の回廊」とうたったものの、正直言って、イタリアのバーリやナポリで観たときの印象とは大きく違っていました。広場に組み立てられた電飾アーチは、見事であったけでど、都市空間に溶け込むことがなく、宗教的な厳粛性もなく、物足らなく思ったのです。
そこへ、大地震の後、明かりの消えてしまった神戸にこの光のアーチを持ち込みたい、という電通の松下常務の意向が伝わりました。それが「神戸ルミナリエ」のきっかけです。

神戸ルミナリエ
神戸ルミナリエパンフ.jpg神戸ルミナリエ最初のパンフ
「神戸ルミナリエ」は、和歌山のものをデザインを一新して、大地震の年の12月に旧居留地で展開することになりました。秋から準備を始めましたが、神戸市は地震からの復興に全精力を費やしており、私が道路使用許可を要請に行っても誰も取り合ってくれません。かろうじて「アーバン」のときの人脈で口頭での許可を得て建設を始めました。電源設備を設置するためにベトナム領事館跡地の使用許可を、当時大阪に臨時移転した大使館に掛け合ったときも、口頭の許可でした。「神戸ルミナリエ」は、テスト点灯では漏電してショートするなど、すったもんだで始まったわけです。

ルミナリエを捨てる
茶谷は、2年間だけ「神戸ルミナリエ」をプロデュースしました。このことはあまり知られていませんが、最近になってウィキペディアに書かれています。というのは、社員であった今岡くんがイタリアのプロダクションと個人契約をしてルミナリエを持って独立したいと言い出したからです。茶谷は、それをあっさり認めました。わが社員スタッフは経営企画センターのような零細な企業にいつまでも身をゆだねるのではなく機を見て果敢に独立すべし、というのが私の思想だったのです。今井くんのときもそうで、彼が余力を有して独立するのに大いに賛意を表したものです。今岡くんにとっても「ルミナリエ」は恰好の独立機会のように思えました。
その後「神戸ルミナリエ」は、多くのイベント業者が寄り集まって巨額の事業費に集る行政イベントになっていきました。私は、6400名を超える犠牲者を出した大震災をカネ儲けの素材にするのは、それが「神戸に明かりを」という美名のもとであっても、耐えがたいことでした。それが、私が「ルミナリエ」を2年で捨てた理由です。